ナンバという道具が発明されたのは天保11年(1840年)のことで、亀浦
の農民である九重郎と七右衛門(後に向田(むかえだ)姓)である。九重郎の
娘婿である茂七が琴芝の西沢で炭坑を始めたが、このあたりは無毛上と言
われるるほど砂石まじりの崩れやすい層で、多くの水が湧き出るところで
あった。茂七は、跳ねつるべなどで水を汲み上げたが追いつかず損を重ね
て生活のめども立たなくなり嫁を親元に返そうと九重郎に相談したところ
「よい方法を考えるから待て」といって、兄と三日三晩工夫して造ったの
が「ナンバ」である。

 轆轤(輪軸)は紀元前のエジプトでも使われている道具であるが、制作
の時にはこの轆轤と水車を参考にしたようだ(向田博さん聞き書き)。
滑車(船に使われる滑車を昔から南蛮車と言う)を使って垂直に捲き揚げ
るように考案。滑車を使ったことから宇部では南蛮車と言う。
 (筑豊では、轆轤をナンバとも言う)

 嘉永年間(1850年頃)に、國吉藤輔(渡邉祐策翁の祖父)によって、
大型化し、目籠を上下同時におこなう新式南蛮車で石炭採掘に従事して
大いに成功した。

 朝鮮王朝後期、22代王(1776〜1800)の正祖(チョンジョ)が、水源(ス
ウォン)に華城(ホワソン)の建設のおり、丁若縺iチョンヤギョン)に
命じて、中国の「奇器図説」を取りよせて、轆轤、拳重機(コジュンギ)
などを造らせた。当時としては最新の科学的工法で短期間で築城した。

 
余禄 『東大寺造立供養記』
文治2年(1186)
4月、兵火に失われた東大寺再建のために「大勧進俊乗重
源」らは、周防国に入って巨大な木材を引き出すに当たって『轆轤二張を
建て、人夫70人を付け、轆轤を押し大綱を引く、綱口6寸、長さ50丈也、
50人綱1丈を持ち挙ぐ、此綱二筋を柱の本末に付けて之を引く、もし轆轤
なければ千人をして之を引かしむ」  (1丈=3.03m)


  南蛮車の使用は、湧水の汲み上げに三池炭鉱勝立坑で馬轆轤として、
  京都琵琶湖疎水工事のシャトル工事で
活躍した。
わくわく常盤の南蛮車

な ん ば

南蛮車のはなし

轆轤(ろくろ)と南蛮車の関係
中国の奇器図説(正祖時代)
昭和30年頃まで活躍した
轆轤と滑車が
使われている
(常盤公園の風倒木で製作
朝鮮王朝時代に糸車をヒントに造られたロクロ
モンサンミッシェルの建設で
重量物を引き揚げるのに、
人間(奴隷)が7〜8人入って
回す轆轤。
 臨正殿と轆轤